『魔女はクリスマスを祝うのか・祝って良いのか』
魔女として研鑽の道を重ねている身であり、どこかのカヴンに所属もしていない私が書いて良いのか迷うところではありますけれど「私個人の考え」である、ということをご理解の上、お読み頂ければと思います。
子どもの頃のクリスマスは「祈り」でした
私は、敬虔なローマ・カトリックの両親の元に産まれ、自分の意思とは無関係に洗礼を受けています。
日曜は教会に礼拝にゆくのが当然、という環境に産まれ育った私にとって、クリスマスは厳かな儀式、そう「祈り」そのものでした。
私の所属する教会では「清貧」が尊ばれていましたから、クリスマスにご馳走がある訳ではなく、むしろ「貧しい人のことを思って」献金をしたりボランティア活動をすることが求められていましたし、そうした活動に参加することが喜びであり、祈りでもありました。
子供の頃は初詣に行かず年始に出かけていた
子供の頃、私は初詣に行きませんでした。
神社がどういう場所なのかを知ったのは小学生4年生くらいだったかも。
それでも親戚の家に年始回りをしたり、お雑煮を食べたりはしていました。
『魔女はクリスマスを祝うのか』を考えるとき、子供時代のクリスマスと正月の過ごし方が私にとっての思考のフックになっています。
豪華なご馳走はなかったけれど、祈りのあったクリスマス。
お雑煮とか食べたけれど祈りのなかったお正月。
どちらが「お祝い」といえるのでしょう。
「祈り」と「お祝い」
『魔女はクリスマスを祝うのか・祝って良いのか』
この問題をややこしく(?)しているのは「お祝いとは何か」が曖昧になっているからなのではないでしょうか。
日本人の多くがキリスト教徒ではないにも関わらず、ご馳走を食べてお酒を飲んで、いかにも「お祝い」をしているかのように見えます。
でも、クリスマスを迎える精神的な準備をした訳でも、クリスマスの日に行われる深夜ミサに参加した訳でもないですよね。あれは寒いぞw
私は「祈りがなければお祝いではない」と思うのです。
日本人が無宗教だとか節操がないと言われるのはおそらく「祈りと祝い」が密接な関係にあるからではないか、と思うのです。
信仰もしていないのにお祝いなんかしない、というか「お祝いというのは本来、神に捧げる行事が顕在化」したもの、という考えをベースにしてみると良いのかもしれません。
お祝いのない祈り、祈りのないお祝い
子供の頃の私にとってのクリスマスは「お祝いのない祈り」であり、お正月は「祈りのないお祝い」でした。
今の私にとってクリスマスは「祈りのないお祝い」です。
『魔女はクリスマスを祝うのか・祝って良いのか』という疑問の発端には「お祝いと祈り」が密接な、切っても切ることの出来ない関係性があるように感じます。
ですけれど、ご飯食べてるだけなんですよ。
そこに信仰が存在している訳ではないんです。
敬虔なカトリック信者の両親の元に産まれた私にもお正月やお盆はありました。ですけれど、そこに信仰は存在していませんでした。
「そんなもの」だと、私は思うのです。