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誰でも魔女になれるのか

ここ数日「気軽に魔女修行を始めましょう」という論旨の文章を書いてきました。
しかしながら「誰でも魔女になれる」のか、というと「なれない」と思っています。
魔女になれるかどうか分からないのに、魔女修行をお薦めするというのは一見矛盾めいているように聞こえますけれど、魔女を目指すということと、魔女に「なる」のは別だということです。

「魔女」になれる人はごく僅か

私にとっての魔女は楠瀬さんです。
魔女の研究をしている日本人は他にも何人かいらっしゃいますけれど、文章を読んで「この人は魔女なんだな」と思える日本人は今のところ楠瀬さんだけ。(※注 実際にお会いしたほうが良いのかもしれませんけれど、逢う機会は殆どないので、文章、と限定させて頂きました)

もちろん、私の知見にも限界はありますから私の知らないところに魔女さんがいらっしゃる可能性はありますから「日本には楠瀬さん以外に魔女はいない」とは思っていませんけれど、おそらく何人もいないでしょう。

魔女である、ということはカヴンに所属しているかソロであるかはともかく、女神・男神と呼ばれる存在に「召命」されている存在です。

楠瀬さんは、魔女になる事に・魔女になるために修行をすることに慎重な態度でいらっしゃいます。
私はどちらかといえば「興味があるなら魔女修行やれば良いじゃん」という態度なのですけれど、これは楠瀬さんの言っていることと矛盾をしているわけではなく「魔女修行イコール魔女になる」ではない、と私が考えているからに他なりません。

『召命』を受けるかもしれないよ、それがどういうことなのか分からないから魔女の修行は慎重にね、というのが楠瀬さんの態度、私は『召命』を受けるのはごく僅か(日本国内で数人)だと思っているので「信仰としての魔女修行」をやるという感じなんですね。

魔女修行と魔女であることの分離が難しい理由

個人的には「魔女修行」と「魔女である」ことは別です。
この感覚はキリスト教徒だったことに起因しているのかもしれません。
教会には神父様がいらっしゃる(※注 カトリックにはシスターがいて彼女たちも身も心も神に捧げてはいますが、ここでは敢えて除外しています)のですけれど、私にとって魔女である、というのは教会の神父様と似た感じなんですね。

ようするに信仰する対象に身も心も捧げる、いわゆる「献身」を行い、それが信仰する対象に受け入れられている状態です。

カトリックにおいて信者は、神を信仰していますし、信者それぞれに身も心も捧げている状態ではありますが(洗礼や堅信、あるいは礼拝や奉仕などをとおして)、それでも神父様は別格の存在で、例えば日曜礼拝を信者が執り行ったり、罪の告白を聞き、それを神のみ名の元に許したりすることはしません。

ですけれど、魔女、特にソロの場合自分で儀式を行い、女神や神と対話をこころみることになります。
すなわち一人ひとりが祭司(プリーステス)なのだという考えがあるんですね。
つまり、日々の儀式が(その内容がどのようなものであれ)祭司として執り行われるものか否か、という考え方の違いに起因しているのではないかと思うのです。

魔女である、あるいは魔女の道を目指す、献身をするということはプリーステスとして身も心も捧げる行為であります。

ですけれど、修行として日々の儀式や瞑想を行うくらいなら、カトリック信者がそうであるように身構えることなく祈りや瞑想をしても良いと思うのですよ。
プリーステスとしての魔女になるのは召命を受ける以上、楠瀬さんの言葉は大切にする必要があるでしょう。プリーステスになるつもりがなくても『召命』を受けるかもしれない、ということは頭の隅に置いておいたほうが良いかもしれません。

ですけれど日本に魔女という概念が根付くようになって40年近くの年月が経過している現状において本当に「この人は魔女なのだ」と言える人はごく少数であり、多くの人はSNSなどでキラキラする(他の人と違うワタシでいる)ために「魔女を名乗りたいだけ」だったり、あるいは私のように魔女の世界に安寧を感じながらも召命を受けることのない人が大半なのだ、ということもまた事実なのだ、と思います。

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